太平洋戦争で航空機製造が急増し佐世保海軍工廠では供給が追いつかないため、1941年10月1日に長崎県の大村に第21海軍航空廠が開設された。現在の大村に残る関連遺構を紹介。
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第21海軍航空廠 本部長舎 防空壕
第21海軍航空廠の本部庁舎用の防空壕。
本部庁舎は米軍接収後に戦後処理に使われ、返還後は出入国管理庁となっていたが現在は防空壕のみが残って周りはスポーツ広場と団地になっていた。
分厚いコンクリートの入口と、頂部には2つ通気塔が見えた。
入口は2箇所あってどちらも塞がれている。
開廠時に植えられた楠
第21海軍航空廠の開廠時に植えられた楠が本部庁舎前の通りに残っているらしいのだけどこれかな。
工員養成所正門
第21海軍航空廠の工員養成所の正門が西大村中学校の門として残されている。
敷地内には工員養成所跡の石碑も残っているようだ。
表札を固定した金具?
慰霊塔公園
第21海軍航空廠の敷地内にあった防空壕を慰霊塔を建てて公園化したもの。
中は入れないが入口は覗き込むことができた。
慰霊碑は通りから見て塔の裏にあり、宮崎第二高女挺身隊などまとめて慰霊されている。
第21海軍航空廠は開廠時645000平米、62工場を持つ東洋一と言われた航空機工場だった。紫電改、流星、零式水上観測機などを製造していたが、1944年10月25日に成都からのB29による大村大空襲で壊滅的な被害を受けた。
格納庫
大村湾に隣接する現在の海上自衛隊大村航空基地の敷地内には第21海軍航空廠の格納庫が3棟並んで残っており、公道から柵越しに見ることができる。
大村海軍航空隊 掩体壕
第21海軍航空廠に隣接した場所に大正時代に設置された大村海軍航空隊の掩体壕が公園に残っている。
原形を保っているが小山の遊具に魔改造されているのはなかなかではないか。
大村海軍航空隊は空母加賀搭載機の訓練基地となり、中国方面の最前線としてここから飛び立った航空機が南京などを空爆した。
おまけ: 陸軍歩兵第46連隊
連隊本部長舎
大村は日清戦争後から陸軍歩兵第46連隊の駐屯地があって元々軍都であった。
連隊本部長舎は陸上自衛隊の駐屯地内に現存していて(写真の赤屋根)、駐屯地史料館として事前に問い合わせれば見学できるようだ。周りにも木造などの古い建物が残っている。
陸軍墓地(忠霊塔)
キリシタン大名が建てた大村三城城跡は陸軍墓地となって、戦後に忠霊塔が建てられた。
大村駅の東側から少し歩いたところにある。
途中の坂には陸軍用地の標柱がタケノコのようにニョキニョキ生えている。
陸軍墓地なので海軍とは関係ないと思ったけど、 山本五十六連合艦隊司令長官の愛読書だった乃木希典陸軍大将の将軍詩歌集にある「国のため 散るひとひらは 惜しまねど あだにぞ散るな 大村桜は」という一句に大村の桜が詠まれていることを示す張り紙があった。
第21海軍航空廠が開廠された時は山本五十六もこの歌と大村の桜を思い出したかもしれない。
大村マップ
国土地理院Vectorを加工して作成。
大村駅の近くの川久保商会がレンタサイクルをやっているという情報を観光案内所で聞いたのだけど、場所が思ったより離れていて探すのに苦労した。長崎空港から大村駅へは路線バスが走っているので長崎や佐世保からの帰りに2時間くらいあれば回れる。
1918年に建てられた大村駅の木造駅舎もなかなか。