太平洋戦争で本土決戦に備えた特攻ボートの震洋。鹿児島県南さつま市坊津町に設立された第123震洋隊の遺構を探したら完全にドツボにハマってしまった。
2023年4月8日に枕崎市で艦これ第二艦隊(坊ノ岬)オンリー「私たち、片道燃料じゃありません!」が開催。その午前中に火之神公園にある平和祈念展望台(戦艦大和殉難鎮魂之碑)などを回ろうと思ったら、坊ノ岬の近くにある坊津(ぼうのつ)に特攻基地があったことを知ってこちらも行ってみることにした。バスは本数が少ないので指宿駅前の観光案内所で電動レンタサイクルを借りた。
兵舎のあった荒所浜と、基地のあった先荒所浜の2地点を結んでいる。
坊津歴史資料センター輝津館。
大陸や琉球との貿易で栄華を極めていた古代の坊津の歴史が展示されている。
輝津館に隣接する坊津観光案内所。
こちらで話を伺い旬のヨモギ餅をいただいた。冷凍だけど。
観光案内所の付近から階段を上っていくと第123震洋隊の記念碑が建てられている。
輝津館と観光案内所から北へ下りていく荒所浜。
荒所浜には第123震洋隊の兵舎があったそうで50人くらいが生活していたという。戦後は真珠養殖を行っていたとか。
写真左の奥には後述の先荒所浜が見える。
輝津館と観光案内所から峰ヶ埼方面へ西に少し行くと先荒所浜があり先荒所公園海水浴所となっている。
このあたりに第123震洋隊の基地があり、震洋を海に下ろすためのレールを戦後に見たことがあるという証言を伺うことができた。空襲に備えて震洋は草木で隠したという。
南側の坊浦。
写真中央は亀に見えるので亀ケ浦というそうだが、少し窪んでいるように見えるところは終戦直前に空襲に備えて震洋を退避させる場所をつくるはずだったらしい。
終戦時の第5特別攻撃隊の引渡目録より。
引渡目録も見ると坊浦の南側には震洋基地のトンネルがが多数掘られているようだったので行ってみた。
しかし、坊浦の南側は小さな漁港のある集落で、戦時中に震洋を格納する防空壕が多数掘られていたとは想像し難い。
坊津と坊浦で会った数人の70代の話では、坊浦に防空壕があったなんて見たことも聞いたこともないという。山の斜面は新しいコンクリートで完全に覆われてしまっており、引渡目録のように本当にトンネルが掘られているのかわからずじまいとなってしまった。引渡目録を頼りに戦争遺跡を探して何の成果も得られなかったのは初めてのことであった。
戦後、坊津で海没処分された震洋のエンジンは嵐山美術館が引き上げ、その残骸は知覧特攻平和会館に展示されているので(撮影不可エリア)、知覧まで行けばかろうじて坊津震洋隊の痕跡を見ることができる。
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