指宿海軍航空基地の跡地で水上機の残骸を発見した。80年経てもジュラルミンは光輝く


指宿海軍航空基地の跡地で遺構を探していたら台風で打ち上げられた水上機と思われる残骸を発見した。


指宿海軍航空基地の遺構


指宿市教育委員会「令和2年に実施した戦跡(空襲遺構)調査について」より

鹿児島県の指宿には太平洋戦争中に海軍の水上機基地が建設され、沖縄戦が熾烈を極めるとフロートをつけた水上偵察機ですら特攻に用いられた。航空機が保存されている、鹿屋、知覧、万世あたりと比べると知名度はないものの、この指宿海軍航空基地は遺構が多く残っていて、水上機の残骸がたまに打ち上げられるようだ。砂むしや知林ヶ島の観光ついでに立ち寄れるので機会をつくって見てほしいスポットとなる。



地図は指宿海軍航空基地の指揮所跡(慰霊碑公園)と指宿市考古学博物館の2地点を結んでいる。


指揮所跡(慰霊碑公園)


指宿海軍航空基地の指揮所跡は慰霊碑公園となっている。

毎年5月27日に慰霊祭が開催されているそうだ。



枕崎沖合の水深400mから発見された航空機エンジンのプロペラなども慰霊碑の隣に並べられている。



中に入ることはできないが、慰霊碑公園の下には防空壕も保存されている。


エプロンの残骸?


指宿海軍航空基地の指揮所の北東には、エプロン(駐機場)と水上機を海面に上り下りさせるための傾斜であるスロープ(滑走台)があった。その陸側奥は格納庫。

大きめのコンクリート板の破片が無数に見られるので、これがエプロンかスロープの残骸ではないかと思うが詳細は不明。戦時中につくられたコンクリートは石を多く含んだ粗悪なものが多かった。



エプロンの跡地をもう少し北東に進んだ場所。陸側奥には整備事務所があった。

ここに無数にあるコンクリートの残骸も当時のものではないかと思う。



木柱でできた基礎と思われる残骸。舟を接岸する場所だったのかもしれない。



反対となる北側には小型機用のスロープと思われるコンクリート構造物が残っているそうだが、干潮時でも波が強くて水面下には何も見えなかった。写真左側となり、写真中央には知林ヶ島が見える。


打ち上げられた水上機の残骸



木柱の残骸付近に水上機と思われる残骸が打ち上げられているのを発見した。

水上機の翼かフロートの支柱付近の構造物ではないだろうか。80年という時を経てもジュラルミンの金属光沢や錆止めの赤色がきれいに残っているのは泣かせるものがある。

地元の人に話を聞いてみると2022年秋の台風で打ち上げられたものだという。

この付近には二式大艇の銃座と思われる円形のフレームを干潮時にだけ見ることができたそうだが、2~3年前の台風で崩壊したか水没したようで全く見られなくなっていた。まさか別の残骸が打ち上げられているとは思わず、これはこれで大きな発見であった。



何かの配線まで残っていた。



付近に落ちていた小さな残骸。

指宿海軍航空基地には、零式水上偵察機、九四式水上偵察機、零式穂状観測機が配備され、佐伯から二式大艇、全国から瑞雲なども来て訓練や対潜哨戒を行っていた。終戦時の引渡資料を見ると航空機は零式水上偵察機1機しか書かれていないため、訓練で着水に失敗、空爆や機銃掃射で破壊、終戦時に接収されないよう破壊して海に投棄された残骸が今なお流れ着いているのではないかと思われる。

ここは知林ヶ島へ至る「ちちりんロード」の入口付近でもあり観光客がたまに通るものの、水上機の残骸に気がつく人など誰もいなかった。


倉庫群跡と爆弾坑跡


倉庫群があった位置に倉庫の基礎と思われるコンクリート構造物が残っている。



1945年5月5日空襲におけるB29の爆弾投下によってできた爆弾坑跡と思われる場所がいくつか見られる。

爆弾坑は公園整備する際に埋め戻されたようだが、今でも他の場所より少しだけ窪んでいたり、黄色い花がたくさん咲いていて植生が他と異なることから「このあたりが爆弾坑なんだな」とわかる。

終戦時の引渡資料を見ると、この倉庫群は含まれておらず、空襲で全焼したため引渡対象にならなかったのではないかと思われる。

場所は、知林ヶ島入口バス停やエコキャンプ場駐車場の付近となる。


知林ヶ島に打ち上げられた残骸?


指宿海軍航空隊基地の北東には干潮時だけ渡れる知林ヶ島があり、指宿の貴重な観光スポットになっている。

干潮時だけ渡れると言うと、小豆島のエンジェルロードを思い出すが、知林ヶ島の展望台から見下ろすと天橋立感ある。



知林ヶ島の海岸にコンクリートの残骸が流されており、干潮時だけ見ることができる。

おそらく灯籠のようなもので、半球状にくり抜かれた部分に照明を置いて水上機の着陸時の目印とする、もしくは上空から観測を行う時に使う標柱ではないかと思うが、詳細不明である。

訪問した日は運良く満月の翌日で大潮だったため、干潮時間帯にほぼ全体を見ることができた。


震洋基地の防空壕?



指宿海軍航空隊基地付近から北に向かってハイビスカス通りを進んでいき、魚見岳を回り込むように北から西に道路の向きが変わるあたりに特攻ボートの震洋の基地があった。

その震洋の格納庫だったと思われる防空壕をいくつか残っている。草木や落石防止ネットに阻まれて十分に調査できなかったが、北から南に向かって掘られた防空壕を2つ見つけることができた。魚見漁港近くの海岸には震洋を海に下ろすコンクリート土台も残っている。




道が南北に伸びるところまで戻ると、東から西に向かって魚見岳に掘られた防空壕を2つ見つけることができた。

こちらは震洋基地のものか指宿海軍航空基地のために掘られたものなのかいまいちよくわからない。

また、魚見岳の山中には指宿海軍航空基地の貯水池もあるらしいが時間の都合で探索することはできなかった。


指宿市考古学博物館 時遊館COCCOはしむれ


指宿駅近くにある指宿市考古学博物館 時遊館COCCOはしむれ。

指宿市の教育委員会事務所が1階に入っていて、指宿海軍航空基地に関連した資料をもらうことができた。

ここには二式大艇の銃座部分の窓枠と思われる残骸が収蔵されており、円形の金属フレームの一部分に2mmくらいのアクリルが残っている様子を見せてもらうことができた。撮影可能だが写真の公開は不可となる。


山川電波観測所の耐弾送信所跡


山川電波観測所の耐弾送信所跡

指宿海軍航空隊としては完全に番外となるが、指宿から1駅隣の山川駅から2.1km離れた山川図書館隣にある山川電波観測施設内に戦前に建設された山川電波観測所の耐弾送信所だった防空壕が残されている。厳密には天蓋などを鉄筋コンクリートで造った半地下の掩体壕だろうか?

この電波観測所は、通信省、陸軍省、海軍省の電波研究を統一的に行う機関として建てられたもので、現在はNICTが跡地を運営している。ここのNICTのスタッフが来るのは火木の週2日しかないようで誰もいなかったが、公道から防空壕を見ることができた。

山川図書館の郷土資料コーナーには「山川電波観測所四拾年の歩み」という本があり、戦前、戦中に関連するページを複写してもらうことができた。

アクセスとしては、指宿駅から山川方面のバスに乗って山川高校のバス停かその1つ前のバス停で降りると近く、指宿駅からがんばってレンタサイクルで往復する手もある。私は枕崎に行く途中だったので指宿駅からバスでここまで来て、徒歩で山川駅の西にある大山駅(日本最南端駅の西大山駅の隣駅)まで鹿児島名物なた豆の畑を眺めながら歩いた。途中にある福ちゃん食堂では鹿児島産の食材を多く使った弁当(540円)を買うことができ、息子さんが養鶏場で働いているとかで黄身が2つ入った大きな生卵をサービスしてもらった。


指宿海軍航空基地へのアクセス


指宿海軍航空基地への行き方は、指宿駅前から砂むし会館などを経由してエコキャンプ場(知林ヶ島入口)バス停まで行く鹿児島交通のバスを利用できるものの、平日1日3本、土日祝1日2本しかなく近辺の温泉宿に宿泊しないと往復できない。

指宿駅で2時間600円からの電動自転車をレンタサイクルする方がよさそう。片道はバスを使って、指宿海軍航空基地指揮所近くにある休暇村指宿で同じレンタサイクルを借りて指宿駅でワンウェイ乗り捨ても可能。ただし、乗り捨てはプラス300円かかる。

海外の戦争遺跡を巡っていると、保存も観光資源化もされていない野ざらしの砲や航空機の残骸を見る機会が多数ある。しかし、地元民以外にほとんど知られていない水上機の残骸を日本国内で見つけることができるとは思わず、沖縄戦の最前線基地と言える指宿で全く予想していなかった邂逅となった。指宿市教育委員会に聞くとこの水上機の残骸は「野外保存」らしく、二式大艇の銃座部分と同じくこのまま朽ちてしまうのはとてももったいない。なんとか調査や保存という方向にならないか願うばかりである。
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