狂気の戦場パラオ・ペリリュー戦跡 洞窟内に残る凄まじい火炎放射の跡を見た


空爆や火炎放射で地肌が丸見えとなったペリリュー島写真。

戦後70周年で天皇皇后両陛下が慰霊に訪れたパラオ。日本政府の慰霊碑が建てられたペリリュー島は太平洋戦争でも屈指の激戦が行われ約11000人の日本軍はほぼ全滅した。

ペリリュー島の戦い


ユナイテッドの特典航空券でトラック諸島とパラオへ行った際に訪れたペリリュー島。

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アニメ艦これ第8話 史実でも大和が停泊したトラック泊地を検証する
1944年に入りトラック島空襲の後にパラオも大空襲を受けて泊地としての機能を喪失。パラオ・ペリリュー島はフィリピンへ迫る米軍によって激戦地となった。

太平洋戦争で劣勢になった日本軍は各地で玉砕を続けていたが、その作戦を転換したのがペリリュー島。関東軍の精鋭を送り込み玉砕ではなく入り組んだ洞窟を掘って立てこもりトンネル陣地によるゲリラ戦を行った。

日本軍がいつものように玉砕してきて数日で終わると読んでいた米軍はこれに大苦戦。砲撃や火炎放射器でジャングルやトンネル陣地内を焼き払い、日本軍は水食料も尽き、辺りは両軍兵の血で染まり死体がゴロゴロと散乱する狂気の島と化した。これまでの玉砕と比べると2ヶ月にわたって持久戦で粘り大健闘したものの、圧倒的な勢力の米軍に勝てるはずはなく、中川州男(くにお)陸軍大佐は「サクラ、サクラ」と電文を打って玉砕した。

この作戦は硫黄島の戦いにも活かされることになるが、映画化で有名な硫黄島と比べるとどうしてもマイナーとなってしまうのがこのペリリュー島である。


千人洞窟


ペリリュー島の船着場から近い千人洞窟。

マップを見るとちょっとした迷路のようになっていて夜戦病棟としても使われたようだ。



日本軍1000人が収容できたという洞窟はガラス瓶などの遺品が数多く残っており、右書きで「キリンビール」とはっきり読めるものも。


墓地にある日本人慰霊碑


ペリリューの市街地から少し南に行ったところに墓地があり、その一角に日本人の慰霊碑がある。

ここでみんなで線香をあげた。結構手入れが行き届いているようだったが、なぜか中川大佐の墓は上部がへし折られていた。


日本軍通信局


日本軍の通信局だったペリリュー第二次世界大戦記念博物館(Peleliu World War II Memorial Museum)

無数の銃痕が残され、側面を見ると爆撃によって開いた穴を塞ぐように戦後に窓が設置されているのがわかる。


海軍司令部跡


海軍航空隊の司令部だった海軍司令部跡。

骨格は70年経ってもしっかりと残っており、爆弾が落ちた天井はポッカリと穴が開いて植物が覆っていた。


生存兵34人


約11000人が亡くなったペリリュー島の戦いの中で唯一生き残った34人が潜んでいた洞窟の近くに、三十四会による看板が建てられ鉄くずや金属の食器が山積みにされていた。

この生存者34人は終戦を知らないまま1947年4月21日に米軍に投降するまでゲリラ戦を続けていた。湿地帯で水が確保しやすい条件があり、時には米軍から食料を盗んだりしながら生き抜いていたそうで。


飛行場滑走路


飛行場滑走路。

2本滑走路があるうち現在は1本だけ使われているようだが、車で走ると結構デコボコしているので滑走路として使っている部分は本当に大丈夫なのかと心配に。米軍はここの飛行場を確保することが最大の目的だったが、飛行場を制圧後に島全土へ進攻する過程で山岳地帯のトンネル陣地で苦闘を強いられることになる。



当時、東洋一と言われたペリリュー島の滑走路は十字状に築かれていた。戦争博物館には空襲でボコボコになった滑走路や周りに岩肌が見える山が写された写真があり衝撃的だった。


上陸地点オレンジビーチ


米軍がペリリュー島への上陸地点としたオレンジビーチ(西浜)。

両軍の攻防により死傷兵の血で真っ赤に染まったことが名前の由来という話もあるが、単純に米軍がつけたコードネームが正しいようで。ちなみに、ペリリュー島ではカニが死んだ兵士を食べて大繁殖したそうで、今もペリリュー島の人は肉食のカニを食べないとか。


零式艦上戦闘機


零式艦上戦闘機。

車輪を出して駐機した状態で撃破された零戦。周りはジャングルとなっているが、通りからすぐ入ったところにあり入口に看板まで建てられているのわかりやすい。


九五式軽戦車とLVT(A)4


先ほどの滑走路から近いところにある九五式軽戦車。



水陸両用戦車LVT(A)4。

日本軍は37mm砲搭載の九五式軽戦車、対する米軍は75mm砲のM4中戦車(シャーマン)。シャーマン戦車は見ることができなかったが、装甲厚12mmしかない九五式軽戦車はかなり頼りなさそうに見え、同じく75mm砲を備えたLVT(A)4と比較しても心もとなく、日米両軍の戦力差を象徴するようだった。

上陸の際に米軍は水陸両用戦車を用意したが、トンネル陣地のゲリラ戦になったのは予想外だったのか山の麓に打ち捨てられるように置かれていた。


中川大佐自決の洞窟


中川州男陸軍大佐が自決したとされる第2連隊本部壕。

洞窟入口には慰霊碑があり、まだ新しい千羽鶴やアサヒビールの缶が置かれ頻繁に慰霊訪問者がいることがわかった。



第2連隊本部壕の中に入ると分岐はあるものの、物置スペースだったのかすぐ行き止まりで基本的に一本道。50メートルほど進むとそこで終わりになっていたが、最深部に至るまで壁面が黒ずんでおり火炎放射器の炎の痕跡が残っているところからペリリュー島の戦いの凄まじさが伺えた。

残念ながら訪問時は天皇皇后両陛下が訪れた日本政府建立の慰霊碑の西太平洋戦没者の碑は台風の被害を受けて道路を含めて修復中だったようで寄ることができなかった。

ペリリュー島へは定期船が不定期であるものの日程が厳しかったので、ロックアイランドツアーカンパニーの1日ツアーを使い120ドル(ネット予約で割引)+ペリリュー島観光税15ドルだった(円安だと結構高い!)。最少催行人数3名以上で数日に1回に程度しか開催されないようなので注意。次に行く機会があれば個人でゆっくり回りたく、燐鉱石の採掘場があった隣のアンガウル島も行ってみたい。


コロールやバベルダオブにも戦跡が多数


バベルダオブ島の草原に墜落した零式艦上戦闘機五二型。

この他、日本の委任統治時代に庁舎が置かれ今もパラオの中心地となるコロールや、国際空港や首都が移されたバベルダオブ島にも数多く戦跡や日本統治時代の建物が残されている。

親が戦争を知ってる世代になる親戚に「パラオの戦跡に行くんだ」と話したところ「パナマの船籍?」と返ってきて転げ落ちそうになるという象徴的な出来事があり、一般的にはパラオはほとんど知られておらず激戦の歴史は風化しているのが原状と言えるので、このように今も多数の戦跡が残るパラオ・ペリリューを戦後70周年で天皇皇后両陛下が訪問したのはちょうどよいタイミングだったのではないかと思う。


今も続く日本とパラオの良好な関係


コロール市内にあった日本国旗の描かれた石碑。

パラオはリゾートに興味がないとほとんどの人はどんな国か知らないと思うが、日本のODA(と台湾とアメリカ)が建設した立派な道路が島中を走り、パラオの経済を支えている姿を見ることができ観光客の我々も恩恵を受けることができる。日本統治時代に栄えたコロールの通りは首都機能が移った今もパラオの中心地となっている(というか経済機能の移転がうまく進んでいない)。



ペリリュー島では日本の救急車がそのまま走っており、定期船も日本のものだとか。

他には、チチバンド(ブラジャー)、サルマタ(ぱんつ)、ツカレナオース(ビール)などパラオ語になった日本語も有名か。宿泊した宿の口コミで「日本語を話す管理人のおばあちゃんがたまにチチバンド姿でいる」という話を見たのでラッキースケベイベントをドキドキしながら期待したけど残念ながら遭遇せず!



コロール(Koror)とバベルダオブ島(Babeldaob)を結ぶKBブリッジ。

元々、日本や韓国企業が入札を争い韓国企業が建設した旧橋が突然崩れ、パラオ政府が非常事態宣言を出すまでに至った。この崩れた橋の隣に日本のODAが無償援助してかけ直したのが現在のKBブリッジで日本・パラオ友好の橋となっている。

天皇皇后両陛下が慰霊に訪れた4月9日をペリリュー州の祝日にまでしちゃったのはさすがに驚いたが、初代大統領も日系人だし、このように頻繁に目にする日本のODAなどから戦後70年経った今もパラオは親日的で有効的な関係が続いていることがよくわかる。

ちなみに、オセアニアの島国は台湾か中国で国交を結ぶ国が分かれており、パラオは台湾と外交していて中国船が違法操業すると銃撃することもあるようで。中国からマナーの悪い観光客が増えたのでそれを制限する方法に動いているニュースが今年に入ってから流れたのが記憶に新しい。観光的にも政治的にもこの小さな島国のパラオは日本にとって重要な国であることをこの機会に知ってほしいと思った。


追記

[C88]大和・武蔵が並んだ連合艦隊本拠地、激戦地ペリリューを巡る「太平洋戦跡 トラック・パラオ泊地ってどんなとこ?」

トラックとパラオの泊地や基地の機能などを交えながら数々の戦跡を紹介。コミックマーケット88で頒布。

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